走れ!春香

作:名無し

注:この作品は『分類:千早』の『千早+あずさ+律子(微エロ)』の続編となります



「うわぁ、この広さすごぉい……これ全部下着売り場なんだ…… 
わたしの地元じゃ、こんなの考えられないな……」 

もう仕事で何度も通っているこの街だが、おのぼりさん丸出しな感じが消えていない辺りが、 
なんというか、いかにも彼女らしい。 
彼女の地元にある、そこそこ大きなスーパーマーケット程もある広さのフロアに、 
ジュニア用から矯正用、介護用まで品数も幅広い。あらゆる女性用下着がそこに並べられていた。 

「こんな高いところにあったら取れないんじゃ……あ!あんなところにレールつきの梯子が。 
……何か、危ないなぁ……転んだら大怪我しそう」 
つぶやきながらも興味に目を輝かせながら、店内を歩き回るその娘の名は、天海春香。 
この近くにあるビル『765プロダクション』に所属する、今売り出し中のアイドルだ。 

千早、あずさ、律子あたりとは、技術力の差もありランクこそ違えど、その真っ直ぐな笑顔は 
すべての人を幸せに出来そうな明るさを持っており、歌のみでなくバラエティからリポートまで、 
失敗すらも生かして、明るく振舞える期待の新人となっていた。 
そんな春香にも、ちょっとした悩みがある。 

「え……980円……じゃなくて!4980円!!どーしてっ!?4000円もの差は何処から来るのっ!? 
いくら地元のデパートでバリエーションが尽きたからって、この値段はちょっと……」 
春香の地元は大きな総合デパートが一軒しかなく、下着といえば大体そこで揃える事が多い。 
そのため、ほとんど学校の友達とバリエーションがかぶってしまい、個性に欠けるのを気にしていた。 
随分前、オーディションに落選した際悪徳記者に 

芸能界の不思議:  【ここまで没個性なアイドルが何故生き残れるのか!? 
           芸能プロダクションとTV業界の癒着を暴く!!】 

こんな記事を書かれたことが未だに引っ掛かっているせいかも知れない。 

アイドルとしてまったくの無名でもないのだし、そろそろ自分の稼ぎでちょっとブランドものの 
下着くらいは買ってみてもいいかも……と思い立ち、765プロでよくお世話になる 
スタイリストさんが勧めてくれた下着専門店へとやってきたのだった。が…… 
「こっちは上下セットで7650円……クレープいくつ食べられるかな……」 
やはり、今まで身に付いた金銭感覚は根強く残っているようだ。 
「……と、とりあえずサービス価格のものから見ていこうかな……うん。 
いきなり有名ブランドエリアは良くないよね……ショックで立ち直れないかもしれないし」 
そう言って、自分に言い聞かせるように手近なものを手にとって眺めていく。 
今の春香にとってそこは、未知の領域であり、宝の山でもあった。 



■ 

「……やっぱり、空気自体が女性独特のものだよな……正直、居づらい……」 
プロデューサーは、今の自分が仕事中でスーツ姿であることに少しだけ感謝した。 
それもそのはずで、ランジェリーショップに挙動不審な男性がいるだけでも、 
下手をすれば通報されかねない。 
その上、先程の千早との関係を思い出し、気を抜けば頬が緩んでしまう。 
「まぁ……今は一刻も早く選んで、買う事が大事だ。落ち着け、俺……」 

数時間前の自分に聞かせても、おそらく信じないだろうと思える急展開。 
律子とあずさの着替えを見てしまったことに事件ははじまり、 
結局色々あって、千早と想いを確かめ合い、身体を重ねた。 
その後千早に緊急の仕事が入り、出かけたまでは良かったが…… 
先程の行為で濡れてしまった千早の下着は、再び身につけられるわけも無く、 
仕事先に千早を残し、ステージの始まる40分の間に下着を買って戻らなくてはいけない。 

状況は分かるし、今の時分がなすべきこともハッキリしてはいるのに…… 
この空気の前にたじろいでしまい、もう一つ行動できないでいた。 
「と、とりあえず価格帯で見ていくか……千早の好きそうな色は、と……」 
丁度目の前にあるのは、12800円くらいの価格で見る上下セット。 
色も白を中心に、水色、ペパーミントグリーンなど、おとなしめのものが多い。 
「うん、この辺あたり千早の年代なら普通に似合うな。でも……」 
上下セットの下着を買うには、一つ重大な問題点がある。 

「えーっと……トップ72、アンダー62〜65のAAサイズ……」 
口に出してみて、はじめてそのサイズが希少であることを思い出した。 
「……………やめておこう。別にブラジャーを買う必要は無いわけだし」 


気を取り直して、再び千早に似合いそうなショーツを物色するプロデューサーだが、 
自分が男性である以上、あまり嘗め回すように見たり、生地に触れたりはちょっと厳しい。 
千早のサイズは一応覚えているが、見るだけで決めるというのはなかなかに難しい事だった。 
いや、そもそも【女性の下着を買う】という行為自体が初めてであり、 
デザイン、材質、色、形……など、どう選んでいいか全く分からないでいた。 

それでも市民ホールで待っている千早の事を考えると、無理でも選ばなくてはいけない。 
5分ほど悩んだ末にプロデューサーが候補に上げたのは三つ。 

「これは……まぁ、多分一番まともかな……」 
一枚目はデザインも大人しくて、王道を行く白のコットン。 
真ん中にあしらわれた白いリボンが、いかにも女の子っぽく可愛らしい。 
デザイン的にはかなりオーソドックスな作りで、両サイドに少しだけレース部分がある。 
千早がそれを身につけた姿を想像すると、多分に洩れず年相応の可愛い女の子になるだろう。 
どんな衣装にも似合い、嫌いな男性はいないであろうという、シンプルかつ完成されたデザインだ。 
難を上げると【普通すぎる】気もするが、似合うのは事実。何より…… 

(……やっぱり、清純派アイドルは白がベストなイメージだよな、うん……) 
男性視点のプロデューサーから見ると、機能よりイメージの方が大事だった。 

「……こっちは、どちらかというと俺の好みかもな……」 
二枚目に気になったのは、ピンクのフリル付きで、ナイロン製のちょっとお洒落なショーツ。 
女子高生くらいの女の子が、少しだけ背伸びをして下着を選んだイメージで、 
お尻の部分にまで拡がるレース模様が、より着用した女性を魅力的に見せるだろう。 
生地のナイロンは店内の明かりを反射して、透き通るような光沢を表し、 
千早の白くてきめ細かい肌に、とても良く似合う。 
実はスノーストロベリーをはじめ、千早は以外にもピンク系の衣装と相性が良い。 
きっと、この下着と組み合わせたら、かなりいい感じのコーディネイトになるだろう。 
ステージを見るレコード会社関連のお偉いさん達の視線を独占できる事は間違いない。 

(……って、見せることを前提に考えてどうする!俺!?) 
少し目的と手段が逸れた事を反省しつつ、時間も無いので次の下着を見る。 



「……これは、ちょっと攻めのデザインかな?でも、今の千早なら…」 
三枚目に候補に上がったのは、千早のイメージカラーでもある蒼いシルク製のショーツだった。 
蒼と言ってもぬけるような青空の色ではなく、水色に近いタイプのもので、 
お尻からサイドまでのカッティングラインが少々大胆で、身体の細い人でないと似合わないだろう。 
ゴシックプリンセスや、ルージュノワールあたりのビビッドな衣装で行くなら、 
こういった少々大胆な下着の方が見栄えが良い。 

(だから、見せる事を前提にするな!!千早の気持ちも考えろって……) 
彼自身、パンチラは戦略と割り切って律子やあずさをはじめ、 
アイドル達にお色気的な部分も頭を下げて納得してもらってきた。 
しかし、自分の一番大切な女の子が他人にぱんつを見せるとなると…… 
感情的に、どうしても嫌だと思う自分がいるのだから、男というのは勝手な生き物だと思う。 

とはいえ、数時間前はこの下着の奥に隠された、千早の大事なところを執拗に見つめ、 
指で、舌で……今思えばかなり変態的にいじっていたのだから、仕方ない部分もある。 
目の前にあるショーツを見るたびに、脳が記憶にある千早の恥ずかしい場所と関連付けてしまう。 
……余計な事を言うなら、少し離れた場所にある【高級セクシーショーツ】コーナーに、 
さっき千早が言った【黒の紐タイプ、シルクのシースルー】が本当にあったが、 
ますます妄想に拍車が掛かりそうなので見なかった事にしたのは、ここだけの話。 

この下着をつけた千早と、もう一度したい。 
下着の上から触り、嘗め回したいとどうしても思えてしまい、公共の場所にも拘らず下半身に血が集まる。 
「うわぁ!?何を考えてるんだ俺はっ!!」 
こんな所でにやついた顔をして立ち止まっていては、不審者そのものだ。 
彼は慌てて邪念を振り払うと、選んだ3枚を手早く掴んでレジへと向った。 
この際選んでいる時間すら惜しいし、別に下着の3枚くらい買う金銭的余裕はある。 
が、精神的な余裕は欠けていたらしく……目の前にいる女性には気が回らなかったようだ。 



「きゃっ!?」 
「うおっ!?」 

正面からぶつかってしまい、女性は尻餅をついて後ろへ転んでしまう。 
「す、すみませんっ!大丈夫ですか?」 
彼は周りを見ていなかった事を反省し、女性を助けるべく手を差し伸べた。 
下着ショップで女性に手を差し伸べる絵自体が奇妙だが、今は人としての行動が優先だ。 
幸い、女性のほうも気味悪がる事無くプロデューサーの手を取り、立ち上がった。 
(……気のせいか、この感触に覚えがあるような気が……) 

その手は柔らかく、ネイルアートなどで飾ったりもせず、自然な美しさが滲み出ている。 
さらに、腕に至るまでのラインも美しく、無駄な肉が無いことが良く分かる。 
(可愛い娘だな……こんな所で出会ったのでなければスカウトしたいくらいだ……) 
ふくよかながらも絞るところは絞った身体つきは、普通の女の子とはレベル的に頭一つ抜けている。 
髪の毛の両サイドにつけたリボンも良く似合っていて、彼女の可愛さを邪魔する事無く引き立てている。 
助け起こしたプロデューサーを真っ直ぐに見つめるその、両のまなこには芯の強さも伺えた。 

(こんな目をした娘……俺は良く知っているような気がする) 
千早の下着選びという一大イベントは彼の思考能力を大幅に削っていたらしく、 
目の前の娘が大きな声でこう叫ぶまで、彼はこの少女の正体にまったく気付かなかった。 

「ぷ、プロデューサーさんっ!?ど、どうしてこんなところに!!」 
「うぉぅあっ!!……は、ははは春香っ……」 
千早のステージまで、あと30分の出来事だった。 



「プロデューサーさんが、どうして下着ショップに……」 
「ま、ま、まぁ待て、いいか、まずは、お、落ち着け春香……」 
「……どっちかというと、プロデューサーさんが落ち着いてください」 

普段は765プロ内でボケ担当の立ち位置にいる春香だが、この時ばかりはツッコミに周る。 
確かにこの状況で、男の人というのは慌てるものだというのは何となく分かる。 
しかし、その表情は【下着ショップで発見されて気まずい】だけではなく、 
【恋人関連を他人に探られて気まずい】もののような気がした。 
同じ気まずさでも内容は微妙に違っていて、その辺の空気が分かるのは、やはり春香も女の子。 
こういう状況で問い詰めると人間ぼろが出やすいもので、律子ならソレを利用して 
情報を引き出そうとしたかも知れない。が、春香はそんな事をするほど賢くもなく、 
また、人が聞いて欲しくない事に踏み込むほど不躾でもない。 

「…………」 
春香は、プロデューサーの話をじっくりと聞くべく、彼の目を正面から見つめている。 
その素直な瞳の前に嘘をつけるはずもなく、プロデューサーはゆっくり口を開こうとしたその時、 
彼の携帯電話が鳴った。 

「……すまん春香。ちょっと待っててくれ」 
携帯電話のサブディスプレイに映る発信元表示が『如月千早』であることを確認すると、 
素早く通話ボタンを押した。 
「もしもし……千早、どうした?」 
『あの……すみませんプロデューサー……コンビニ、駄目でした……結局、 
2件周りましたが両方とも皆にサインをねだられてしまって、ショーツ買える雰囲気じゃないまま会場へ……』 
「しまった!その可能性を忘れてたっ!?」 

万が一の保険に、千早をコンビニの前で降ろして下着を買わせようとしたのだが、 
慌てていたので千早がメジャーアイドルだと言う事をすっかり忘れていた。 
話を聞くと、こっそり入ってショーツを買おうとしたところ、店員さんに 

『あ、アイドル歌手の如月千早さんですよね……俺、大ファンなんですっ!! 
是非、サインしてくださいっ!!お願いしますっ!』 

……などという空気になってしまっては、下着など買えるはずもない。 
結局千早はノーパンのまま仕事をこなしているという。 


『休憩を挟みますが、多分あと30分足らずで歌に行くかも知れません…… 
プロデューサー……わたし、どうすれば……』 
『分かった。買ったらすぐに駆けつけるから……大丈夫、俺を信じてくれ!!』 

普段と違ってしおらしい千早の声もまた魅力的だが、この非常事態にそんな事は言ってられない。 
プロデューサーは電話を切ると、春香に向きなおり、真剣な表情で話し始めた。 
「春香、今は緊急事態だ。とりあえず俺はこのぱんつを買って急いで……ん!? 
春香!?その手に持ってる上下セットは?」 
「え?こ、これ!?……えっと、あれ?何でこんなの持ってるんだろう…… 
確か、転んだ拍子に掴んで、そのまま……」 

本人も気付かぬままに手にしていたそれは、上下セットの高級下着だった。 
ピンク……ではなく。白と赤の布と飾りが混在した、丁寧な作り。 
白ベースの生地に、赤より少し薄い色……ローズとでも言うべきだろうか? 
それでレース模様とリボンがあしらわれて、遠くから見るとピンク色に見える。 
店内の明かりに晒してみると、角度が変わるたびに生地の反射で違う表情に見え、 
花の蕾がゆっくりと開いていくような不思議な印象を、見るものに与えていた。 
サイドは細めで、お尻にかけてのカッティングラインもシャープではあるが、 
Tバックほどあざとくは無い。千早のようなスリムな女性が着るとこの上なく似合いそうである。 
最後にクロッチラインから股間に当たる部分だけは純白のエリアで統一されていて、 
穢れ無き乙女の大事な部分を包むのに最適な形を持ちながら、 
狂おしいほどにそこを求め、穢してしまいたくなる危険な魅力を孕んでいた。 

それなのにここまで高級感を与え、かつ乙女の清純な魅力を引き出すその下着を、 
プロデューサーは絶対に千早に着けて欲しいと思った。 
きっと、スノーストロベリーとこの下着のセットは最強装備の一つになる。 
ミニモーニングやチェリーギンガムに比べると衣装単体では負けるが、 
組み合わせた時の効果は折り紙付きで強力だと確信できた。 

……無論、進んで見せるものであってはならないのだが。 


「春香、そいつをくれ!!」 
「え……えぇっ!?」 
「そいつが欲しい。千早に一番似合うのはきっとそれだ!だからソレを買う!!」 
「えぇぇぇっ!?ち、千早ちゃんに……って、どうしてプロデューサーが千早ちゃんのショーツを……」 

ばったり出会ったと思えば、いきなり必死の形相でとんでもない事を言われているのだから、 
この場合驚かない方がどうかしている。 
春香は、目を白黒させながらいつの間にか掴んでいた下着とプロデューサーを見比べる。 
彼が嘘をついている様子は欠片も見えない。むしろ真剣そのものだ。 

「説明は後だ!千早のために今はそいつが必要なんだ!!だから……」 
「え、えーっと……でも、これ上下セットですよ……ほら、ブラのサイズも、 
アンダー67〜のCって……どう考えても千早ちゃんだと……」 
そう言われてふと思い出す。千早の稀に見る希少なサイズを。 
彼は同じデザインでサイズの違うものを素早く探したが、同じものはその一着しか無かった。 
もう一度サイズを見ると、ヒップサイズは78〜83とこちらは幸いにも合っている。 

「構わん!!そのパンツ一枚が必要なんだ!上下セット全部払ってでも!!」 
そう訴え掛ける彼の目はどこまでも本気で、オーディションに挑む時のような 
後へは引けない覚悟と、為すべき事のために最善を尽くす意志に満ちていた。 

「わ、わかりましたから……でも、やっぱり勿体無いですよ。 
これ、可愛いし……ブラの方はわたしが買います。その方が良いでしょ?」 
「分かった。ところで春香……これから予定はあるか?」 
いかにも時間の無さそうなプロデューサーに、春香は首を横に振る事で素早く否定の意を示す。 

「じゃ、金を渡すから買ってきてくれ!俺は車を出してくるから、 
会計したらすぐ店を出て乗ってくれ!頼む!!」 
そう言って、彼は一万円札を2枚ほど春香に渡し、店の地下駐車場へと走る。 


「あ、あのっ……これ、多い……」 
「領収書は切らなくていい!包装も最低限でいいから急いでくれ!!」 
さっきの電話と、彼の慌てぶりから見て、本当に緊急事態なのだろう。 
春香は言われたとおりに会計を済まし、店を出ると丁度会社で使うワゴン車が駐車場から出てきた。 
素早くドアを開けて乗り込むと、車はそのまま急発進。 

「巻き込んでしまってすまない……あと、買ってきてくれてありがとう、春香」 
「は、はい……えっと、それは良いんですけど……一体何が……」 
「今から説明する……ちょっと事情は特殊だが、細かいところは気にせず聞いて欲しい。 
千早の名誉もあるし、一部俺だけの意志では話せないが、まずは……」 

プロデューサーは、上手く要所を切りながら今のピンチを説明した。 
千早に緊急の仕事が入ったが、わけあって下着が無いこと。 
やむを得ず、ステージ衣装で歌うまでの間を使って、自分が下着を買いにさっきの店へ来たこと。 
万一の保険であるコンビニでサインぜめに逢い、今も千早はノーパンであること。 

春香も、『千早の名誉のため』と前置きがあったので、 
何故千早が下着を着けていないのかは、聞こうとしなかった。 
推測できる点はいくつかあるが、今はそんな事を考えるべきではない事くらいは分かる。 
「なるほど……だからあんなに急いでたんですね」 
「ああ。あの店もさっき思い出したばかりでな……休業日だったらどうしようかと思った」 
「ところで、プロデューサーさん……千早ちゃんに必要なのって、ショーツ一枚だけですか?」 
「ああ、そうだが……」 
「だったら、この上下一枚づつはわたしが買います。ブラだけだと、ちょっと寂しいし……」 

紙袋から春香が例の下着を取り出したのを見て、彼は驚いた。 
ブラ一枚に、ショーツが2枚付いている事に。 


「え!?……どうして2枚?」 
「ふぅ……プロデューサーさん、女の子の下着について分かってませんね……」 
「そうそう分かってたまるか!?俺だってあんな店ははじめてでだな……」 
「えーっとですね……上下セットの下着は、大体ブラ一枚に対してショーツが2枚で一組なんです。 
どうしても、ブラよりショーツのほうが早く痛んじゃうから……」 
「そ、そうか……」 

春香の説明に変な意味は無いが、やはりこういう話題は気恥ずかしい。 
プロデューサーは運転に注意しつつ、春香の提案を了承した。 
「わかった……あと、それは買わなくていい。協力してくれたお礼にもらってくれ」 
「えぇぇっ!?で、でも……これ、5桁ですよっ!領収書も取ってないのに……」 
「それくらいの価値はあるものさ。それに、ブラジャーも無駄にならなくて済む。 
でも………千早には見せるなよ。気にしてない風で結構落ち込むし」 
「あははっ……確かに。千早ちゃん、お風呂でじっと自分の胸を見つめてたりします♪ 
でも、プロデューサーさん、千早ちゃんのこと、すごく良く分かってますね……」 

見透かされたような春香の突っ込みに、少しだけ動揺するプロデューサー。 
その瞬間、彼の心の動きを表すように、車が急ブレーキをかけて前に傾いた。 

「くそっ!!ここまで来て捕まったか……あと少しってとこなのにっ!!」 
怒気を孕んだ声と共に、拳を車体のピラーへと打ちつけるプロデューサー。 
見ると、道路の前も後ろも車で詰まっていて、明らかな渋滞と見て取れる。 

「プロデューサーさんっ……場所は、市民ホールでいいんですか?」 
春香がシートベルトを外し、下着を入れた紙袋を握りしめる。 
「あ、ああ……春香も有名歌手の前座で一度、来た事があったよな…そこだ」 
「多分……いえ、きっと走れば間に合う距離です。わたし、走って届けますよ!」 



正確な距離は分からないが、あと10分必死に走れば何とかなる。 
千早とプロデューサーが目の前で必死に頑張っているのを見て、彼女はごく自然に 
協力することを提案した。 
彼は一瞬迷ったが、今は一分一秒でも惜しい事と、春香の真っ直ぐな眼を見て、 
了承せざるを得なかった。 
「ありがとう……ホール内にある千早の控え室まで、それを届けてくれ」 
「わかりましたっ!千早ちゃんもプロデューサーさんも、わたしの大事な人ですからねっ! 
……プロデューサーさん、いつもの……お願いします」 
「あ、ああ……わかった。いくぞ春香……」 

『絶対……間に合うぞ!!』 

それは、オーディション開始前にいつも行う、縁起担ぎ。 
たまたまこの応援で勝てたから、不思議とこの言葉が定着した。 
今でも特別オーディションに挑む際は、この言葉が春香にとって戦いの合図であり、 
テンションを最高に上げるためのキーワードとなっていた。 
「行ってきます、プロデューサーさんっ!」 
いつものようにプロデューサーに向って手を振ると同時に春香は走り出した。 

『千早ちゃんのため、プロデューサーさんのため……絶対、勝って…… 
じゃなくて、間に合わせるっ!待ってて、千早ちゃん!』 

市民ホールまであと約2キロ。ステージの開始時間まで、あと10分の出来事だった。 



「もしもし……千早?今どうなってる……うん、うん……そうか……わかった。 
いいか、落ち着いて聞いてくれ……今、春香が買ったものを持ってそっちに向かってる。 
ああ、偶然店で居合わせてな。彼女がいなかったらこの渋滞でやばかったかもしれない。 
大体、道のりだけで2キロくらいだから……間に合うとは思うが…… 
そうか……分かった。社長には俺から言っておく。ああ、それじゃ、後でな……」 

彼は電話を切ると、今度は社長へとかける。 
「もしもし、社長……お願いがあります。今から春香が市民ホールに向かいます。 
警備の人に話して、入れてやってくれませんか?ええ……千早の未来が掛かってます。 
はい、後でお話しますから、とにかくエントランス前で春香を……はい、お願いします」 

渋滞で、しばらく車が動く気配のないことを察知すると、プロデューサーは 
シートを大きく後ろに倒し、祈るように天を仰いだ。 
(……とりあえずやるべき事はやったが……間に合うか……頼むぞ、春香……) 

市民ホールで行われている非公式の催しは、半分プロモーション会場と化していた。 
堅苦しい審査こそ無いものの、どのプロダクションも仕事を取るチャンスとばかりに、 
エース級のアイドルや歌手達を投入しており、ちょっと芸能界に詳しい者なら、 
それがオーディションに近いものであることが容易に想像できる。 

女子用控え室には全事務所のアイドルや歌手達が着替えや準備をしており、 
一人で何もしていない千早だけが、異彩を放っていた。 

(あと……5分……そろそろ着替えないと……) 
先程プロデューサーとの電話で、着ておくのはスノーストロベリーの衣装と決まった。 
幸いにも、マント状の上掛け以外は上下一体型であるため、学校の体育の時間にしたような 
【人に極力肌を見せない着替え】が出来た。 
あとは極力座らず、動かず……万が一にも自分の惨状を知られまいと注意する。 
自分一人が気にしてもどうにもならない事であるのは分かっている。 
しかし、千早は今も必死で会場に向かって走っているであろう春香を思うと、 
あらゆる意味で、心配せずには居られなかった。 



「……きゃうっ!?」 
もう、何度目か分からないほどに転んだ春香が立ち上がる。 
アスファルトの地面で転んではどうしてもダメージ無しというわけには行かず、 
捻挫や骨折こそ無いものの、膝は擦りむけ、血が滲んでいた。 

レッスンの成果があってか、春香は一般人よりは体力に自信がある。 
しかし、2キロの距離を楽に走れるほどはさすがに鍛えておらず…… 
1キロも走らぬうちに息が上がり、脚が悲鳴を上げて力が入らない。 
道に迷う事はない分、春香の脳内では様々な憶測が飛び交い、 
身体が疲れていく一方で、頭はいろんな事を考えてしまう。 
ちょっと前の、車内での会話もその一つだった。 

「でも、プロデューサーさん……お店で迷うくらいなら、千早ちゃんに前もって 
希望を聞いておけば良かったのに……確かに男の人からすれば恥ずかしいと思うけど」 
「聞いたよ。黒のシルクで、紐タイプのシースルー仕様が千早の希望だった」 
「あ、なるほど……千早ちゃん、黒髪が綺麗だし、身体も細いからきっと似合う 
………って、えぇぇっ!!!?」 
春香も女の子である以上、プロデューサーの言葉から簡単にビジュアルイメージを 
想像できた。しかし、どう考えても千早にはありえないコーディネートであり、 
そんな下着を付ける千早は、派手で劣情たっぷりな下着を付ける雪歩と同じくらいに 
想像できない……というより、あってはいけないビジュアルだった。 

「……冗談だ」 
「も、もう……脅かさないで下さいよぉ……プロデューサーさんもそんな冗談言うなんて、 
今日は変ですね……セクハラ発言、一本ですよ」 
「その冗談を言ったのは、千早だ」 
「あ、なーんだ……そうですよね。プロデューサーさんはそういうセクハラっぽい発言には 
気を配ってるし、言うとしたら千早ちゃん……って、ええぇぇぇえっ!!!?」 

律子がこの場に居たら、100点をあげていたであろう、完璧なタイミングでの乗りツッコミ。 
間接的ではあるが、初めて聞いた千早の冗談。 
しかも、その内容に春香はただただ驚くしかなかった。 
内容こそ誰にも言わないが、以後、この事は春香の記憶で【伝説】となる。 


(さっき座った車のシート……ちょっと暖かかった……多分、千早ちゃんだよね……) 
千早がどうして下着を着けていないのか? 
どうしてもその疑問が脳内から離れてくれない。 

1:噴水に落ちるとか、ずぶ濡れになる系の事故が起きた。 
(……これが確率高いかも……でも、何となく違うような気がする) 

2:粗相をしてしまった。もしくは急激に【女の子の事情】が来てしまった。 
(これもありえないか……千早ちゃんに限って) 

3:プロデューサーと…………えっちな事を…… 
(……ま、まさかね……これこそ一番ありえないよ、ね……) 

春香からすれば、どれも当たって欲しくなどない3択だった。 
しかし、想像とはいえ脳が勝手にビジュアルを描いてしまい、 
765プロ社内でえっちな事をするプロデューサーと千早の映像が浮かんできた。 
(だ、ダメダメダメっ……何てえっちな……じゃ無くて、失礼な事を想像してるのよっ) 

痺れる足に鞭を打ち、余計な事をする脳を叱りつけ、春香は走る。 
確かに千早に何があったかは気になる。すごく気になる。 
しかし、春香の中で絶対に動かない事実もまたあった。 

「わたしは……千早ちゃんが好き。憧れるし尊敬するし、ほっとけない……」 
ランクこそ先を越されてしまっているが、春香にとって千早は、 
同期デビューのかけがえのない友達であり、絶対的な実力を持ちながらいつも寂しそうな…… 
放っておけない存在だった。 

「そして、わたしは……プロデューサーさんが好き。お世話になってるし、 
頼りないところもあるけど……いつだって真剣にわたしの事を考えてくれる……」 
【敏腕】の肩書きを持ち、何人ものアイドルをプロデュースする激務をこなす人ではあるが、 
決してアイドル達を差別する事無く、困った時はいつも相談に乗ってくれた。 
時折、頼りないところはあるが、春香は彼に全幅の信頼を置いていて、 
彼女にとってプロデューサーは唯一無二の存在と言っても過言ではなかった。 


「その二人が、困ってるんだ……助けなくっちゃ!わたしが助けられるなら!!」 

いくつもの邪念を振り切って、市民ホールの大きな玄関へと走りこむ。 
エントランスには、心配そうに待つ社長の姿があった。 

「あ、天海君……大丈夫かね!?彼に言われて、キミを通すようにと言われたが……」 
「わたしなら大丈夫ですっ!!それより、千早ちゃんの控え室を教えてくださいっ」 

社長の導きで警備員のチェックをパスして、教えられた部屋へと走る。 
たった1フロアの登り階段がこの上なく遠く感じるほどに、脚がダメージを主張するが、 
這ってでも辿り着く覚悟を決めた春香の心は、その程度の疲れでは止まらなかった。 

「765プロダクション代表、如月千早さん……準備をお願いします」 
「くっ……は、はい……わかりました」 
呼び出しが掛かり、やむを得ず控え室の奥から立ち上がり、歩き出す千早。 
カメラも無いし、振り付けを極力抑えれば何とかばれずに歌えるとは思う。 
しかし、大幅に表現が制限されるし、何よりプロモーション活動としては 
つまらないものになり、社長の期待に応えるにはとても及ばない事も分かる。 

……しかし、下着を付けずにステージに立つという非常識な行動が表に出る事は、 
765プロのイメージを地の底まで落としてしまい、全員に迷惑を掛けてしまう。 
(プロデューサー……プロデューサーっ……!!) 
何とか対応しながらも心が折れそうな千早の目に、近付く影があった。 

それは、走るというより転がるようなイメージで、全身が土と埃にまみれ、 
ステージ衣装で近付いてよい類のものではない。 
だが、はっきり見えるわけではないが、感覚で彼女は分かっていた。 


プロデューサーを信じぬいて良かったんだと言う事に。 
春香が、間に合ったのだと言う事に。 



「春香っ……春香、大丈夫!?」 
目の前で豪快に転び、千早に土埃が付くが、そんな事は気にならない。 
控え室に居た他の出演者達も何事かと、入り口に詰め寄って様子を見た。 
そんな千早を見た春香は笑顔で『大丈夫!』と目で語り、 
ほとんど出なくなった声を振り絞って、千早に伝えた。 

よりによって、この状況で一番言わなくてもいい事を。 


『千早ちゃんっ……お待たせっ、ぱんつ買ってきたよ!!!』 


ある者はざわめき、ある者は必死に笑いを堪えた。 
千早は無表情で下着の入った紙袋を受け取り、係員に向かって 
「1分弱お待ちください……すぐにステージに上がりますから」 
と、何事も無かったように化粧室に向かって歩いていった。 

誰もが天井を仰いで息を切らせる春香を遠巻きに見ていたが、 
誰一人……係員ですら声を掛けられなかった。 

(あれ……あれ?わたし、もしかして……またやっちゃった?) 

処刑こそ免れたものの、セリヌンティウスとの仲は終わったかもしれない。 
春香は、中学生の頃読んだ国語の教科書で、あの物語の最後はどうなったかを 
思い出そうとしていた。 
何にせよ、【問題無しのハッピーエンドはあり得ない】事だけははっきりと想像できた。 



「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ……千早ちゃんがテンション落としてたら、 
絶対にわたしのせいですっ……あぁっ、どうしよぉ……」 
「ま、まぁ落ち着けって。春香は十分によくやってくれたってば」 
見ているほうが心配するほど、春香は身体を前後させ、はげしくお辞儀する。 
あまりの勢いに両手に遠心力が付き、やよいの挨拶のようなモーションに見間違うほど。 

「まぁまぁ……そろそろ、ステージがはじまるぞ。その辺にしておきたまえ」 
あれから10分ほどが過ぎ、プロデューサーが遅まきながら市民ホールに到着した頃、 
春香は社長と一緒に関係者席に座っていた。ものすごく暗い表情を見るに、 
【駄目だったか?】と彼は思ったが、春香の話を聞く限りでは一応間に合ったという。 
春香から詳しい話を聞くのは雰囲気的に少々憚られたが、仕事である以上そうも行かない。 
ぽつり、ぽつりと少しづつ話を聞いて今に至り、彼が事の顛末を理解した頃には、 
千早のステージがはじまろうとしていた。 

「千早は心配無いよ。社長も、見てやってください……千早の可能性を」 
「……!?」 
いつもならこんな事件の後、プロデューサーが落ち着いているなんて有り得ない。 
気難しい千早のテンション管理は胃を痛めるほどに難しく、今日のようにスパイラルの 
口火を切るような出来事の後、彼はいつもネズミのように激しく動き回っているはずなのに。 

幕が開き、ライトに照らされたステージ上には千早が立っている。 
その顔を見て、社長と春香は息を呑んだ。 
いつもの集中力と緊張感に溢れた顔ではない。 
穏やかで、優しさに満ち溢れながらも確固たる存在感を持ち、 
ここに立っているのが年端も行かぬ小娘であることが嘘のように思える。 

若くして、誰もがその地位と存在を疑わない。 
ここにいる業界関係者達は、誰もが自然に彼女をこう呼ぶであろう。 



『歌姫』と。 


「…………っ、何、これ……すごく、優しい歌……」 
「うむ、驚きだ……蒼い鳥が、強さ以上に優しさを湛えて会場を舞っているようだ」 

動きこそ穏やかであるものの、歌声に秘めた情熱はホール全体を覆いつくし、 
客席に向ける視線は希望と喜びに満ち、見るものの心を捉えて離さない。 

歌唱力、ダンス、キャラクター性……アイドルの力を表す要素は数あれど、 
トップの地位まで上り詰めるには、運と、それ以上の何かが不可欠である。 
その『何か』を説明するのは大変難しいが、今現在ここにいる人間なら 
間違いなくその『何か』を、如月千早その人に見たであろう。 

ただ彼女の声に酔いしれ、気が付けば心地良さだけが疾風の如く脳内を駆け抜けていた。 
歌が終わり、観客席にお辞儀をする千早を見て、はじめて全員が夢から醒める。 
その後に来るのは怒涛のような拍手の奔流であり、今のこの時間が各社のプロモーションではなく、 
千早のために用意されたコンサートであったような錯覚さえ覚えるような……そんなステージだった。 




■ 


「お待たせ、春香……ごめんな、待たせちゃって」 
突発イベントが終わったあと、プロデューサーと千早を待っていたのは、 
TVプロデューサーやCMディレクター達の名刺攻撃だった。 
各社のプロモーションが終わったあとは、別室に移って立ち食い形式のパーティーとなり、 
各々が談笑したり商談したりと、まったりした時間が流れていた。 

途中乱入した春香も、プロデューサーが予備で持っていた衣装を渡されてパーティーに参加。 
同業者やTVディレクター達と雑談などをしながら高級料理をつまむが、 
社長、プロデューサー、そして千早はかなりの時間、皆に囲まれていた。 

「あ、いえ……そんな事ないですよっ!お料理美味しいですし、服も貸してもらって……」 
「で、千早なんだけど……」 
「あ……」 
そう言われて改めて思い出す。さっきのアクシデント。 
いくら急いでいて頭の中が一杯だったとはいえ、デリカシーの欠片もない一言。 
もし、自分が千早の立場だったなら……やはり怒っていたであろう事を考えると、 
申し訳無さだけが春香の心に渦を巻いていた。 

「千早ちゃんっ……あの、わたしっ……」 
「春香……ありがとう。おかげで助かったわ」 
「え!?……千早ちゃん、怒って……ない?」 

意外にも千早の表情は穏やかで、大勢の前だからと無理して笑顔を作っている感じはしない。 
千早はそんな性格ではないし、そこまで器用でも無い。 



「確かに、大勢の前で言わなくてもいい事を大声で言うのは感心しませんけど…… 
でも、そんなに無理をして、怪我をして……一生懸命に来てくれたのでしょう? 
感謝しても、怒る理由なんてどこにも無いわ」 
「ち、千早ちゃん……うぅっ……ありがとう。本当にごめんね……」 
「だから、もういいのよ春香……こちらこそ、わたしのために怪我までさせてしまって、 
ごめんなさい……せっかくのオフだったのに」 

「あー……それなんだが、天海君。今日はパーティーで如月君とともにTV関係の 
ディレクター、プロデューサー達を相手にしてくれた事だし。出勤扱いにさせてもらうよ。 
後で、交通費その他の領収書を取っておいてくれたまえ。経費で支給しよう」 
「えぇっ!?で、でも……もうプロデューサーさんから……」 

ブラとショーツのセットを貰っているのに、と言いかけて、 
千早が目の前にいることに気が付き、言葉を引っ込める。 
それを察したプロデューサーも小さく頷いて『社長の言う事を聞いておきなさい』と、 
さりげなく春香に促した。 
ちょっと遊びに来たつもりが、今日は大変な一日になってしまったらしい。 

「それで……すまないんだが春香。俺と千早は社長と大事な話があるから…… 
駅まで送っていくよ。今すぐ帰れば晩御飯までには間に合うだろう?」 
「は、はい……千早ちゃんと、ですか……」 

千早の『蒼い鳥』を聴いてから、何かが心に引っ掛かる。 
ステージが終わって、プロデューサーの元へ駆け寄り、笑顔を浮かべる千早を見て、 
春香は決定的なものを感じ取った。 

千早と、プロデューサーの心の距離を。 
そして、彼女とプロデューサー二人が立つ位置には、 
もう誰も入り込む隙間は残っていないという事を。 

千早がプロデューサーに向ける笑顔には、そんな意味を何となく感じた。 
誰に確認するでもなく、直感のみだが。不思議と間違いが無いと確信できた。 
結局社長の好意に甘え、新しい服を渡された春香はホールで着替え、 
プロデューサーの車で駅へ送ってもらい、自宅へと帰り着いた。 

嬉しいはずなのに、得体の知れない虚無感を抱えながら。 



■ 


「ごちそうさま……」 
「あら……春香、もういいの?珍しいわね」 
「う、うん……今日はちょっと色々あって疲れちゃって」 

「そう……お風呂沸かしておくから、少ししたら入りなさいね」 
「ありがと、お母さん……それじゃ、部屋に戻るね」 

時計は8時を回り、夕食を済ませた春香は自室へ戻る。 
机の上には一つの紙袋。プロデューサーから貰った下着が入っているやつだ。 
上下セット、ショーツ二枚付きで12,800円也。(一枚は千早のものになったが) 
正直ここまでお高い下着をそうそう学校へ着けていくのも気が引けるし、 
765プロで仕事やレッスンの時に着けようにも、千早の前でこれを見せるのも気が進まない。 

「すっごく可愛いんだけど……どうしよう、これ……」 
ローズの上品な飾りは着用者をいくぶん大人に見せ、春香も例に洩れず、 
ちょっとお洒落で色っぽい女の子になれるような気がする。 
春香は、下着の値札を外すと着ている服を脱ぎ始める。 
何故か、無性にこの下着を着けてみたくなる衝動に駆られて。 

服を脱いで下着姿になり、自室の姿見をじっと見つめる。 
今現在身につけているのは、ごく普通の地元デパートで買った下着。 
しかも、別段お出かけ仕様でもなく、ブラとショーツに統一性は無い。 

その様子はどう見ても【普通】の可愛い娘であり、 
部屋のレイアウトも合わせると、彼女がアイドルとは思えない。 
ダンスレッスンの成果もあり、スタイルはデビュー前より格段に良くなってはいるが、 
適当に選んだ下着が、春香の全身からアイドルのオーラを消しているように思える。 
今日はオフだし、見せるものでも無いからと無造作に選んだ下着だが…… 
下着自体は見えなくとも、それを選ぶ時の心が表れていたのかもしれない。 

意識する、と言う事がここまでイメージに影響するのか……と、 
春香は改めて、アイドルという仕事の奥深さと、人間の持つ深さに感心した。 
そのせいかは分からないが、妙に鏡に映る自分のイメージを変えてみたいと思う。 



「えっと……確か、こんな感じ……」 
どこかで見たような、グラビアアイドルがするような、両手を上げて脇を見せるポーズ。 
少し腰をひねり、胸からお腹のラインが一番スリムに見えるようにアングルを変えてみる。 
クラスで一番とは言わないが、それなりに育った胸には自信がある。 
765プロでも3番手をキープしているし、写真集の売り上げもそれなりに結果を出した。 

そういえば、今度新人が入ってくるとか言う噂を耳にしたが…… 
まだ伊織と同じ年齢らしいので、当分この座は安泰だろうと思う。 

ダンスしながらブラを脱ぎ、わざと鏡に向かって放り投げる。 
セクシーに見せようと春香なりに考えての演出だが、どう見ても似合っていない。 
下手をすれば新人風俗嬢にも見られかねないので、プロデューサーがこの場に居たら、 
厳しく注意して止めさせていただろう。 

それでもファンの視点から見れば、天海春香が下着を脱ぐという描写は何物にも変え難く、 
観客が居ないからこそできる仕草ながら、貴重なビジュアルではあった。 

普段なら別に気にも留めないが、今だけは感覚が違う。 
ショーツを下ろして脚をくぐらせ、丁寧に片方づつ足から抜き取る。 
あからさまに慣れていないので片方の足に引っ掛かってしまうが、それがまた 
余計にいやらしさを助長させた。 
さらに紺のハイソックスははいたままであるため、全裸とは違った趣がある。 
どちらにせよ、アイドルが見せる類のビジュアルでは決して無いものだった。 

そのまま、貰ったばかりのショーツを穿き、ブラを着けてみる。 
ショーツはほんの少し小さい気がしたが気にするレベルではなく、 
ブラジャーにいたっては、まるで自分のために用意されたと思うほどピッタリだった。 

「わぁ……」 
鏡の前に居るのは、ごく見慣れた自分。 
それが、下着一つで別人に見えるのだから女性というものは分からない。 
アイドルと女性、二つの自分を嫌でも自覚してしまい……部屋に誰もいないのに、 
不思議と下着姿で居る事に恥じらいを覚える。 



「千早ちゃん……このショーツをはいて、ステージに立ってたんだ…… 
プロデューサーさんが選んで買ってくれた、このショーツで……」 
女性の目から見ても、可愛らしいデザインの上下セットは、身につけてみると 
着心地もよく、ただ華美なだけの男性受けを狙ったものではない事が分かる。 
こんなものを恋する男性から贈られたとしたら…… 
きっと、天に舞い上がるほど嬉しいのかもしれない。 

「プロデューサーさん……千早ちゃんのこと、信用しきってたよね…… 
あんな顔、律子さんや小鳥さん、あずささんにも見せたこと無い……わたしにも」 

パーティーの最中、時折見た千早の笑顔。 
それは無論、TVプロデューサーやCMディレクターに向けてのものではなく…… 
プロデューサー本人との間にある、揺るぎ無い絆に見えた。 
千早本人に確認こそしていないものの、改めてその判断は間違いではないと確信できる。 

……何故なら、春香もまたデビューからずっとプロデューサーを見続けてきた女の子だから。 
きっと自分を含め、律子、あずさ、伊織……もはや誰もあの二人の間に入れない。 

「プロデューサーさんは、千早ちゃんを選んだんだ……たとえ、わたしたちとの関係が 
壊れる事になっても、場合によっては責任を取って解雇されても……」 
春香とて芸能人の一員として、業界のルールは教え込まれている。 
プロデューサーとアイドルが関係を持つと言う事。それは業界内で禁忌とされているし、 
それでも思いを貫くなら、一定の責任を取らなくてはならない。 

誰もがプロデューサーに好意を寄せながら、一線を越える事が無かった。 
それはアイドル活動を妨げる事を嫌ってか、社内の関係が割れることを嫌ってか。 
詳しい事情は個人で異なるが、今分かっている事は一つ。 

プロデューサーが、決断を下した事。 
きっかけや経過は分からないが、彼が決めた事である以上、 
それがいいかげんなものでは無いことは春香も良く知っている。 
だからこそ、その決断が覆る事がありえない事も。 


「うん……そうだよね。すごい歌だった……一生忘れないくらい…… 
千早ちゃん、可愛いし、誰よりも歌が上手くて、努力家で…… 
わたしみたいにケーキ焼いててレッスンに遅刻する事なんて無いし…… 
プロデューサーが、えらんで……当然……だよ……ね」 

当たり前の幸せは、失って初めて分かると聞いたことがある。 
春香がそこまでプロデューサーに想いを寄せていたかは、 
正直な話、そこまで自覚してはいなかった。 
今思い直せば、考えてハッキリさせるのが怖かったのかもしれない。 
そうこうしているうちに、時は流れて事態は決定的となった。 

「千早ちゃんなら大賛成なのに……大事な人が幸せになって、嬉しいはずなのに……」 
今、はるかの頭の中にあるのは、【何もしなかった自分】に対する後悔だった。 
千早だけでなく、律子、あずさ、伊織……魅力的なアイドル達が溢れるこの会社で、 
自分はどこまで頑張れたのだろうか? 

勿論、手を抜いた事などないしアイドル活動が嫌いなわけではない。 
しかし、常にベストを尽くしたかと自分に問えば、それは否であった。 
『苦手なものから逃げるのは、春香の悪い癖だぞ』 
いつだったか、ミーティングの際に言われた言葉が記憶から蘇る。 

あの時の言葉を受けて、苦手なダンスも何とか克服したが、問題はそこではなかった。 
一番大事なものから逃げていた事に【気が付かなかった】自分に対して、 
悔し涙が溢れる。 

「う……ぐすっ……きっとプロデューサーは、千早ちゃんと…… 
このショーツをはいた千早ちゃんと、いろいろ……たくさん……」 
あふれ出る涙と共に、妄想が止まらない。 
同じショーツを通して、感覚を共有するかのように春香は下着の大事なところに指を這わせた。 
「ひぁっ……やあぁ……買ったばかりなのにっ、いきなり汚れちゃうっ……」 
思考とは裏腹に、指は止まる事無く春香の秘部をなぞり、空いた方の手はブラの中にいれ、 
汗ばんだ手で乳首を弄り始めた。 
春香の心の中で、その手はプロデューサーのものへと脳内変換され、 
彼に直接触られているような意識で自慰行為に耽った。 


彼のことを考えるだけでいつもより感じてしまい、流れる液体の量が増える。 
これが妄想であることを自覚しているからこそ、千早に遠慮する事無く 
快感を貪る事が出来た。 
「あぁっ……プロデューサーさぁん……そこ、やだ……」 
無意識に春香の両手は胸へと誘われ、少し乱暴にその柔肉を揉みしだく。 
唯一、千早に勝る(と、本人が思っている)その胸を重点的に攻める事で、 
千早への劣等感を拭い去ろうとした結果だった。 

「やん……あうっ、くぅ……ひぁっ!?だ、だめぇ……おっぱい、気持ちいい…… 
プロデューサーさんっ……そんなに、乳首いじっちゃ……あぁ……」 
想い人の名前を呼ぶ事で、はじめて自分がそこまで彼を意識していた事に気付く。 
ちょっと考えるだけで感じ方が全然違い、彼の存在が無いと、今の快感も半減する。 

両手で胸をいじりながらも下半身からは蜜が溢れ、新品のショーツを汚していく。 
下半身に触れると、どうしても千早を意識してしまい切ない気持ちになるので、 
今はひたすら胸で快感を得ようとした。 
指で乳首を擦ると脳髄に電気が走ったように気持ちよく、いつの間にか両手で乳首を弄っている。 
適度に育った春香の胸は程好く反応し、先端を硬く尖らせ刺激を受ける。 
「気持ち、いいよぉ……恥ずかしいけど、プロデューサーさんがわたしの胸、触って…… 
あぁっ!?……何、これ……いつもより、感じ……あぅっ……」 

いつもより胸に重点を置いた自慰行為。性器に触れていないのに、 
新品の下着がもうかなりの勢いで愛液を吸ってしまっていた。 
【本当は、想像じゃなくて本当のあの人と……したい】 
そんな夢が叶わなくなった今、春香は脳裏に浮かぶ愛しい人を想い、遠慮無しに指を動かした。 

「ひゃうっ……あぁん、だめ、だめぇ……プロデューサーさんっ……そこはっ…… 
弱いし、汚いし、恥ずかしいですよぅ……あっ…あぁっ!?……ふぁあ……」 
気持ちが空虚な分、身体はいつもより過敏に反応している。 
いつの間にか新しい下着は湿り気を帯びすぎてシーツに雫をたらし、 
身体の心は火照って、気持ち次第でいつでも達してしまいそうになっていた。 



絶頂と共に、あの人への想いを諦めよう。 
そして、大事な友達の恋を祝福したい。 

……だから。だから、今だけはあの人のことを考えながらイきたい。 

「プロデューサーさん、プロデューサーさんっ……あっ、あぁっ……ひあぁぁっ!!」 
下手をすれば、部屋の外まで聞こえてしまったかもしれない。 
ちょっと大きめの声と、今までに無い快感を抱えて、春香は絶頂を迎えた。 

ぱたりとベッドに倒れこみ荒くなった息を整えると、意外と喪失感は強くない。 
ただ、どこまでも空虚な気持ちが広がっていた。 

「明日から、気持ちを切り替えてレッスンもお仕事も頑張らなきゃ、ね…… 
もっと、気持ちも心も強くなりたいなぁ……どんな時でも前へ、上へいけるような」 

考えながらも、人間の生理に従い濡れたショーツを脱ぎ、小さく畳む。 
そろそろ風呂が沸く時間なので、春香は立ち上がって服を着た。 

「おかあさん……お風呂、沸いたみたいだから先に入っちゃうね」 
「あらそう?じゃ、次はお父さんだから、上がったら教えてあげて」 
「はーい」 

風呂場で買ったばかりの下着を洗いながら、春香は少しだけ泣いた。 
765プロ全体にとって激動の原因となる一日は、こうしてそれぞれ終わっていった…… 



■ 

人間、身体に染み付いた習慣というものは、簡単には消えないものである。 
もっとも、昨日の全力2キロ疾走が効いている為か、早くに寝てしまった事も関係しているが。 

そして、今日も何だかんだで春香は始発電車に乗って、765プロへと向かっている。 
(あふぅ……眠) 
ちょっとばかり眠気は残るが、765プロへ近付くと共に気も引き締まる。 
なにしろ、今日からは心機一転。後悔しないように前へ、上へと進もうと決めてからの初仕事だ。 
プロデューサーにも、昨日『明日は大事な話があるから』と言われている事だし、 
プロデューサーの口から何も聞いていない以上、推測の段階でテンションを下げるわけにも行かない。 
駅の階段を下りてから改札を出て、事務所に向かって歩きながら、いよいよ春香の表情は真剣味を帯びてきた。 
ドアの前に立つと一つ深呼吸をして、相撲取りがやるように両手で頬をパンと一発、叩いて気合を入れる。 

「……ったぁ……力加減、間違えちゃったかも」 
少しばかり躓きながらも、気を取り直してドアを開ける。 
そこにあったのは、今まで見たことも無いような重苦しい雰囲気だった。 
壁に掛かっているプレートを見るに、今現在来ているのは春香と千早のみ。 
あとは社長、事務の音無小鳥、そしてプロデューサーといったいつもの顔ぶれ。 
だが、明らかにいつもと雰囲気が違い、空気が鉛のように重い気がする。 
それが、プロデューサーの顔面についている青アザに拠るものかどうかは分からない。 

……いや、分かる気はするが、それを春香が言う事では無いような気もする。 
「おはようござます、プロデューサーさん!」 
空元気も元気のうち、とばかりに春香は大きな声で挨拶する。 
「ああ、おはよう春香。昨日はありがとうな……筋肉痛とか、大丈夫か?」 
「うーん……まだちょっと痛いですけど……って、プロデューサーさんその顔、 
一体どうしたんですかっ!?……階段で転んだなんて、言わせませんよ?」 

気が付かないフリ、というのはこの場合かなり不自然ではある。 
誰よりも素直で、思ったことがすぐ顔に出るのが【天海春香】という人間なのだが…… 
こんな時だけは他人を思いやるあまりに、自分の感情を押し殺してでも、 
自然に振舞えてしまうのが彼女の凄いところである。 
……無論、本人は無自覚であるのだが。 


「やっぱ、目立つ?……昨日、ファンにもまれる千早を守ろうとして、ちょっと……ね。 
千早は無事だし、他に怪我人は出なかったし、これもプロデューサーの仕事って事で」 
「もう……目を怪我してたらレッスンもオーディションも出来ないんですからね。 
気をつけなきゃダメですよ、本当に……じゃ、私着替えてきますね」 

挨拶を済ませた春香は、着替えるために更衣室へと足を運ぶ。 
といっても、ステージ衣装に着替えたりするのではなく、軽く上着を脱いで汗を拭く程度だが。 
身体が資本であるアイドル達は、手洗い、うがいはもとよりちょっとした汗の処理にも気を使う。 
仕事に穴を開けることは禁物であるため、風邪をひくような要素は少しでも減らしておく必要があるから。 
(……そういえば、千早ちゃんも来てるはずだけど……まだ更衣室なのかな?) 
更衣室のドア前に人がいないことを確認して、念のためノックをしてからドアを開ける。 

「………千早……ちゃん?」 
ロッカールームの奥には、自分のロッカーに向かって一人、何かまじないのような言葉をつぶやく 
千早の姿があった。暗くて表情こそ伺いづらいが、どこか追い詰められているようにも見える。 
「おはよ、千早ちゃん……昨日は本当にごめんなさい……大丈夫だった?あれから」 
「おはよう、春香……ええ、ちょっと大変だったけどこれも仕事だから」 

なんてことない雰囲気で着替えを進める千早だが、なんとなく春香には分かった。 
テンションは高いが、千早から発せられる【圧】というべきものが、ほとんど感じられないことを。 
昨日のステージで見た、溢れんばかりの存在感が、今ははっきりと消えている。 
テンションの高さで外郭は保っているように見えるが……何故か、春香には【それ】が見えていた。 

「千早ちゃん……昨日、何かあったんだね……プロデューサーさんの頬のアザ、見たよ」 
「……っ!?」 
「話して、ほしい……な。わたしじゃ全然頼りにならないけど……千早ちゃんが一人で、 
そんな顔をしてるのは見てられないよ……」 
「そんな顔って……テンションも、声のトーンもわたしは変わってない!プロデューサーも、 
社長も、小鳥さんも……みんな、そう言ったわ。仕事でしくじったりはしません!」 
「じゃあ、その後はどうするの!?」 

春香は、譲らない。 
確かに千早のテンションは高いままだし、人を惹き付ける歌声は今も健在だ。 
しかし、彼女だけが気付いていた。その雰囲気から来る、千早への過負荷に。 


「確かに、今の千早ちゃんはどのオーディションでも無敵だと思う。 
今、歌えば歌うほど爆発的にファンを増やせると思う……凄く、幸せそうで前よりずっと可愛くて…… 
事務所で誰も適わない場所に登りつめようとしてる……でも、そのもっと後は?」 
「……春香?一体何を」 
「千早ちゃん、倒れちゃうよ……そんな顔でスケジュールをこなし続けたら、 
絶対、千早ちゃん壊れちゃうよぉっ……そんなの、絶対ダメ!! 
社長も、律子さんも、あずささんも、伊織も……わたしも、そうなったら、耐えられないっ……」 

「大丈夫よ春香……適度に休みは取れるわ。プロとして、身体を壊すような真似は……」 
「ちがうよっ!?わたしが言いたいのは、そんな事じゃないっ!!だって…… 
千早ちゃんの心、全然休んで無いじゃない?【助けて】って、言ってるじゃない!?」 
「くっ……言ってません!わたしの心は、そんなに弱くない!!」 
「じゃあ……教えて。昨日、あれから何があったか……わたしも一応関係者だし、 
プロデューサーさんの事、好きだったから……話を聞くくらい、いいよね……」 

少々ズルイとも思ったが、春香は自分の想いを口にした。 
全員が、多少の差こそあれどプロデューサーを意識していることは千早も知っていたから。 
「わかった……わ。春香を送ってから、わたし達は事務所に戻って……」 
千早も、プロデューサーと愛し合うようになってからは覚悟を決めていた。 
少なくとも、事務所内の人間同士では、誤魔化しが聞かないことを知っているから。 

■ 


「ぐあっ……」 
「プロデューサーー!!」 

プロデューサーの話を最後まで聞くと、社長はいきなり彼を殴りつけた。 
「キミという男は……あれほど念を押して言っておいたのに!!」 
小鳥と千早が必死に食い止めるが、社長の怒気はおさまりそうに無い。 

「キミは最高の人材だった……今のユニット全てを引退させ、一区切り付いたら…… 
わたしは、身を引いてこの会社を任せたかった……それなのに!!」 
「申し訳ありません社長……俺を拾ってくれて、育ててくれた恩を仇で返すような真似をして…… 
しかし、俺は千早のために生きたいんです……千早を、世界の舞台で歌わせたいんです」 
「ならば、この765プロで世界へと発てば良い!肉体関係など持たずとも!?」 

「それは、ありえません。社長も分かっているはずです……昨日のわたしの歌が、 
誰に力を貰って歌えたものか」 
「……愛の力、というわけかね?」 
「はい!」 

きっぱりと言い放つ千早に、社長も言葉を飲み込む。 
昨日の、桁違いの感動は確かなものだったし、あの歌がプロデューサーとの幸せな 
気持ちを素直に乗せているものだとしたら……納得できる。 
「その言い分は認めよう……だが、世間には何と公表する!? 
アイドルという立場にいて、そんな正論は通用しないぞ……そして、わたしも 
社則を曲げるわけにはいかない。代表取締役権限として、キミを……っ」 

「社長!」 
「社長!?」 
千早と小鳥が叫び、社内の時が一瞬、凍りついたように止まる。 
社長は、千早とプロデューサーの顔を交互に見ると、背を向けて語りだした。 

「……条件付きの契約社員とする。まず、今現在キミが育てているユニットを全て、 
武道館でコンサートができるまでにプロデュースする事。 
そして、如月君の次のシングルを、300万枚以上売り上げたまえ」 
「さっ……!?」 
小鳥がその数字に、息を呑む。 
それもそのはずで、今の765プロの規模からするとそんな枚数は考えられない。 
普通に聞けば、誰もが無茶だと思い、必死で止める。そんな挑戦的数値だった。 
「あの歌声なら、それくらいは行ける……そうだろう?」 
「はい、やらせてください」 
「それが達成できたら、後は自由にしていい……しかし、出来なければ以後、 
如月君との関係は禁止する。理不尽なようだが、これは芸能事務所の社長権限だ。 
世界に打って出るなどと抜かした以上、最低でもそれくらいの仕事はやりたまえ。 
それまで、マスコミ関係には一切伏せておく……なに、わが社は信用できる人材ばかりだ。 
君達がヘマをやらかさない限りは、洩れることなど無いだろう」 
「わかりました。必ず、千早を世界に連れて行きます!!」 

冷たく、全てを見通すように光る千早の目。 
熱く、すべてを薙ぎ払わんとするプロデューサーの目。 
二人の瞳に決意の一端を見た社長は、それ以上何も仕事について言う事は無かった。 

「では、今日はもう帰りたまえ……小鳥君、すまんが彼の手当てを頼むよ」 
「あ……はいっ!?」 

小鳥に連れられて、3人が社長室から出て行こうとする。 
最後に、プロデューサーと千早は振り返り、社長に頭を下げた。 

『ありがとうございました』 

一礼して社長室を出て行く3人。 
社長はすっかり日も暮れた窓に向かって一人、身体を震わせていた。 



■ 


「300万………そんな、無茶苦茶な数字……」 
「だから、わたしはこのまま歌い続けて、勝ち続ける……プロデューサーのために」 
「でも、その後は世界に行くんでしょ?プロデューサーさんと。 
……じゃあ、わたし達は、その夢を手伝っちゃダメなの?」 
「っ……!?」 
「わたし、千早ちゃんの事大好きだよ……昨日の歌は凄かったし、尊敬してる。 
だから、もっともっと幸せになって欲しい!でも…… 
今の千早ちゃん、幸せを掴みに行く顔じゃないよ……人のために何もかも我慢する人の顔だよ…… 
そんなの、残された子は辛いよぉ……」 

身長差もあってか、春香は千早の胸に抱きつくような格好で泣いた。 
しかし、その様子は娘を心配する母のようであり、春香を抱きとめる千早のほうが幼く見える。 
「春香……でも、わたしはみんなのプロデューサーを奪ってしまった人間です。 
さらに負担を掛けるわけには……」 
「そんなの、関係ない!!千早ちゃん、全然分かってないよぉ!みんなの気持ち!! 
千早ちゃんは、オーディションで負けた相手のこと、憎いって思う? 
TV出演を奪った、嫌な奴だって思う!?……そんな事無いよね? 
わたしたち、アイドルだよ……みんなを幸せにするお仕事だよ…… 
力が足りなくて負けたのはちょっと悔しいかもしれないけど……それで、 
大好きな人が幸せになるのを、嫌だと思う!?」 

「そ、そんな事………無い」 
「だから、みんなもわたしと同じ気持ちだよ。千早ちゃんがオーディションに勝った時は、 
一緒に喜んで、お仕事で上手く行かないことがあったら……みんなで泣いて…… 
プロデューサーさんだけで支えきれない部分を、支えたいと思うもの!!」 

「……春香」 
「きっと、社長さんもそこまで見通して、そんな条件をつけたんだと思うよ…… 
さっきは無茶だと思ったけど、300万枚は確かに不可能じゃないと思う…… 
わたしは経営のことはよく知らないけど。 
でも、その後さらにパワーアップして世界の舞台に立つんだったら、 
小鳥さんも、みんなも……765プロ全員の協力が無いとダメなんじゃないかな?」 



涙が頬をつたう中、春香は優しく千早に向かって微笑んだ。 
それは、春香が目指している大好きな母親のような優しさであり、全てを包み込むような暖かさは、 
家庭の愛情に飢えた千早にとって、久しく忘れかけていたが、とても大切なものだった。 
そう。プロデューサーにも為しえない意味での『支え』を表すような。 

「だからね……わたしにも、手伝わせてほしいな……大好きな千早ちゃんとプロデューサーの、 
大きな、とっても大きな……夢なんだもん」 

他人の幸福を心から2倍以上に喜び 
他人の不幸を考え無しに半分請け負ってくれる。 
彼女を知らない人間は【没個性】だの【ただのおっちょこちょい】だのと陰口を叩くが、 
彼女に触れたことのある人間は、説明しようの無い彼女の魅力を、肌で感じるのだ。 

ひたむきで、あたたかく……他人が困っている時は、絶対放っておけない。 
そんなアイドル【天海春香】の、最大の長所と、揺るぎない個性を。 

「あ!?……そうだ。大事なこと言わなきゃいけなかったんだ!忘れてた……」 
「大事な、こと?」 

春香は、一旦千早から離れると、ポケットにあるハンカチで涙を拭き、 
身なりを正して千早に向き直り、軽く彼女の手を取った、そして一言。 
「おめでとう……千早ちゃん。ほんとにほんとに……おめでとう」 

今までに無い笑顔で、千早を心から祝福した。 

無論、昨日のショックは残っている。 
しかし、今そんな事はどうでも良かった。 
目の前に、もっと大変な事態を抱えている、とても大切な人がいるのだから。 

「はる……か……っ……うあぁっ……あ……ありがとう……っ…… 
ご、ごめんなさい……わたし、また自分の事しか考えてなかった……っ…… 
うあぁ……ああぁぁあぁん……」 
今度は、千早が春香の胸で泣くことになった。 
春香は、ただひたすらに千早の慟哭をその胸で受け止めた。 

(プロデューサーさん……わたし、強くなったかな?敗北を受け止めて、強くなれたのかな……) 
千早の抱きしめ、髪を撫でながら……春香は大切な人の顔を思い浮かべた。 
相も変わらず後先考えずに行動してしまったが……今回ばかりは欠片も後悔していない。 
はっきりと、大好きな人の力になれたし、自分の進むべき道も見つかったのだから。 

まだまだ太陽が低い朝のロッカールームだったが、不思議と春香と千早の周りだけが暖かかった。 




■ 

「うぅ……人間って、寝ると重くなるって言うけど、本当だよね……」 
千早を背負いながら、春香は765プロの廊下を歩いている。 
ひとしきり春香の胸で泣いた千早は、いつのまにか眠りに落ちていた。 
春香のシャツに染み込んだ涙の量が、千早の今まで抱えていた重圧を感じさせる。 
(今日の午前中はトレーニングだって聞いたけど……このまま寝かせてあげなきゃ、ね……) 
涙の跡を残しながらも、安らかに眠る千早の顔を見た春香は、 
千早をおぶって仮眠室へと運んで行った。 

狭い部屋ながらも一応簡易ベッドが3つほどある765プロの仮眠室。 
だが、そのうち一つはほぼプロデューサーの個人ベッドと化している。 
基本的に未成年組のアイドル達は余程の時以外は帰宅させているし、 
まれに深夜の収録をした後、律子やあずさが使う程度。 
日中にアイドルの体調の悪くなった時なども使うが、基本的にこの部屋の主は 
プロデューサーその人であった。 

「よいしょっと……失礼しまーす」 
扉を開けて中へと入り、できるだけ静かに千早をベッドへと下ろす。 
(ふぅ……千早ちゃん、わたしより4キロも軽いのに……運ぶのは大変だなぁ……) 
4キロといえば、牛乳パックで言うと4本分。 
ただでさえ重労働だった千早を運ぶ事に加えて、さらに牛乳4本を背負うとなると…… 
(…………ダイエット、しようかなぁ……今週、2回ケーキ作って食べてるし) 
と、この流れであまり関係ないと分かっていても、ダイエットの事は常に気にしてしまう。 
それもそのはずで、目の前にいる千早は胸こそ薄いものの、 
女性なら誰もが憧れる細いウェストに、スラリと伸びた芸術的な脚線美をしている。 
端整の取れた顔立ちと相まって、ちょっとしたモデルと言っても世間に通用するだろう。 

(身体つきも綺麗だけど、でも……) 
はじめて見る千早の寝顔。しかし、春香がそこから感じるのは、造型の美しさではない。 

(寝顔、すっごく可愛いなぁ……幸せそうで、あったかい表情してる) 
家庭の事情から常に他人を寄せ付けなかった千早の表情は、常に硬かった。 
しかし、愛する人と一つになった幸せと、涙も欠点も晒せる友達が出来た幸せ…… 
プロデューサーとの愛情だけでは、ここまで安らかな寝顔にはならなかったであろう。 
その二つに包まれた千早の安らかな寝顔は、綺麗というよりとても可愛らしかった。 
近寄りがたいほど美しい芸術品ではなく、思わず触りたくなる愛らしい存在というべきか。 



「ふふ………えいっ♪」 
つい、いじくりたい衝動に負けて春香は千早のほっぺを指でつついてみる。 
それは思ったよりずっと柔らかく、人としての息吹を確かに感じさせていた。 
「ん、んん……」 
(きゃ〜……なんだか、赤ちゃんみたいに可愛いっ……つんつんつん) 
「んにゅ……っん……」 
(あぁっ……もっと触りたいっ……って、いけないいけない!起こしちゃダメだってば!?) 

我に返った春香は、煩悩を振り払って千早に毛布をかけ、ある事に気付いた。 
「あれ……このベッド、思ったよりしわがある……って、ここプロデューサーさんの!?」 
僅かに残る使用された形跡と、ほんの少しの温かみ。そして、忘れようもない彼の匂い。 
ろくに考えず、重さから開放されたくて一番近くのベッドに千早を寝かせたのだが…… 
そこは、ほとんどプロデューサー専用ベッドであり、アイドル達が使うのはきまってそれ以外だった。 
「うー……でも、まぁ……いいか。千早ちゃんだもんね…………」 
自分が犯人ながらも、羨ましい事をしてしまったかもしれない、と思う。 
が、千早だからこそ、それも納得できた。 

「ん……プロデューサー……」 
(……どんな夢見てるのかなぁ……気になるっ……でも、本当に可愛いなぁ……千早ちゃん。 
【歌姫】って、もっと女王様みたいなイメージだったけど……) 

こんなに可愛らしい歌姫なら、きっと誰からも愛される……そんな気がする。 
少しばかりの名残惜しさを感じながら、春香は仮眠室をあとにした。 
(歌姫、かぁ……わたしもそんな風に……って、関係ないよね。 
うん、自分と他人は別だし……わたしはわたし。一番大好きな自分になればいいんだ) 
清々しい気持ちで伸びをして、朝日差し込む廊下を歩く。 
千早が、いい夢を見られるように、と祈りながら。 




■ 

「春香……ずいぶんと時間が掛かったな」 
「あ、すみません……千早ちゃんを仮眠室に連れて行きました。それでちょっと…… 
あ。でも、倒れたとかじゃないですよ!!かなり疲れ気味だったから、わたしが強引に説得して、 
寝かせたんです……午前中は、そっとしてあげた方がいいと思います……」 

春香の説明を聞いて、プロデューサーの表情が二転三転する。 
おそらくは、昨日の経緯を思い出して逐一千早の様子を思い出しているのだろう。 
「そうか……確かに昨日はいろいろあったからな。本人の要請とはいえ、 
翌日からトレーニングは無茶だった……すまんな、春香」 
「あ……い、いえいえっ!……それより、お昼になったらちゃんと顔を出してあげないとダメですよ! 
今よりもっと元気出して、いい顔しなきゃ!」 

本来、話しかけてテンションを上げるのはプロデューサーの役目だが、今日ばかりは違っていた。 
あれから、誰よりも早く立ち直ったのは春香であり、誰よりも明るく振舞っているのもそうである。 
真っ直ぐでひたむきで、懸命なその姿は、一般人もアイドルもプロデューサーも関係なく、 
すべての人を癒し、活力を与える……ここはオーディションの中でこそ無いが、 
見る人が見れば、誰もが彼女をこのように形容するだろう。 




【アイドルの中のアイドル】と。 


■ 

「さぁ、テンションもバッチリ上がったところで、社長!今日の流行情報はどうなんですか?」 
「あ、ああ……そうだったね、すまんすまん。今日はビジュアルの長い天下が終わって、ダンス系が……」 
春香の明るさが社内の重い空気を一掃し、いつのも765プロの朝が始まった。 
社長の流行情報説明が終わり、何気ない一日が動き出す。 

「……で、今日の『大切な話』って何ですか?」 
「ああ、そうだったな……うん。落ち着いて聞いてくれよ、春香」 
「はいっ!衣装替えでも特別レッスンでも、何でもどうぞっ!!」 
「実はだな……新曲が出来たんだ、お待ちかねの」 
「え、えぇぇぇえっ!?……わ、わたしっ……またシングル出していいんですかっ!?……わわわ…」 
「だから、落ち着けって」 

「あ、は、はいっ……とりあえず、お水飲んで……んくっ、んくっ……ぷはぁ」 
「……それ、俺の」 
「あ……はわわっ!?す、すすすみませんっ……うあぁ……プロデューサーさんの……」 
慌てんぼうなところは相変わらずだが、こんな仕草の一つすら、皆を癒す。 
もっとも本人はそんな事に気付く由も無く、 
(………ごめんね千早ちゃんごめんね……不可抗力だから、うん、不可抗力……ラッキーかもだけど) 
プロデューサーに背を向けて、なにやらぶつぶつと呟くのみだったが。 

「……話を続けていいか?」 
「あ、はいっ!もう大丈夫です!!関節キスなんて忘れますっ!!」 
「………あ」 
さらに泥沼へ。こういうところは本当に春香らしく、微笑ましい。 
稀に場の空気によって、洒落では澄まなくなるところもあるのが欠点だが…… 

「続けるぞ……実は、昨日作曲家の先生から電話があってな。 
律子の曲【魔法をかけて!】を作った先生……知ってるだろ?」 
「あ、はいっ……今、人気アニメの音楽とかやってるんですよね。確かあずささんが……」 

「ああ。あずささんが声優初挑戦の他、高いクオリティで話題になってる人気アニメ、 
【涼宮ハルカの望む永遠の憂鬱】シリーズの音楽も担当してて、わが765プロとも深い繋がりがある人だ。 
以前から頼んでいたんだけど……かなりの試行錯誤の上、昨日完成したばかりの曲さ」 
「昨日って……プロデューサーさん?もしかして自宅に帰ってないんですか?」 
「ああ。退社してからすぐに電話があってね。すぐに受け取りたくて、先生の仕事場に伺ってからは 
そのまま曲のチェックをしながら会社に泊まった」 
「……それって、今日も徹夜じゃないですか!?」 
「何を言うか、ちゃんと寝たぞ。2時間くらい」 
「……それ、【ちゃんと】って言いませんよ!?」 


どうしてこの人たちは自分を省みない無茶をするのか。 
社長に言い渡された厳しい条件に関係なく、おそらく性格上無茶をする気質なのだろう。 
ふと春香がプロデューサーのデスク上を見ると、伊織の携帯ストラップデザイン資料やら、 
律子、あずさ用の写真集撮影スケジュール表などが散乱している。 
しかも、緊急で春香の新曲をチェックして、イメージ路線やオーディション対策を練っていたのだろう。 
千早でシングル売り上げ300万枚という途方もない目標を課されながらも、 
自分達へのプロデュースに一切の手を抜かない。彼は、そういう人だった。 

「……プロデューサーさん。午前中ってわたしの歌詞レッスンですよね? 
その後、千早ちゃんを連れてTV局でお仕事……」 
「ああ、そうだが」 
「社長……午前中はプロデューサーさんをベッドに拘束しちゃいます。いいですよね?」 
プロデューサーの片腕を取って、立たせようとする春香の勢いに、社長も 
首を縦に振る以外のリアクションを取れなかった。 
そのままプロデューサーの腕を固定し、オフィスを出て犯人を連行するように仮眠室への廊下を歩いていく。 

「さあ、行きましょう。新曲はありがたく午前中一杯使って聴かせていただきます。 
プロデューサーさんは午前中だけでもしっかり寝て、その目のクマを落としちゃってくださいな。 
TV局の偉い人と会うのにそんな顔してたら、男前が台無しですよ?」 
「お、おい、春香……別に俺は大丈夫だってば」 
「大丈夫なのはテンションだけですっ!!……その身体じゃ、ちょっと何かあったら、倒れちゃいますよ! 
プロデューサーさんが倒れたら、どれだけの人が困ると思ってるんですか!? 
わたしたちの事が大事だと思うなら、寝ること!!わかりましたか!?」 
「しかしだな、やはり歌詞読みは俺がいた方が……」 
「今はわたしが辛いんです。プロデューサーさんと一緒にいると」 

二人の歩みとともに、一瞬時が止まる。 
廊下には靴の音すら響かず、本当に何もかもが停止したような錯覚に捕えられた。 
「……ま、仕方ないですよねー♪プロデューサーさんはこの世に一人しかいないわけですし」 
「春香……俺は」 
「はーい、ストップ!!分かってますよ……わたしも女の子ですから♪」 
春香はくるりとステップを踏み、プロデューサーの前に踊り出る。 
「プロデューサーさんが千早ちゃんを好きで……嬉しいって思うわたしもいるから。 
……それに、わたしきっとこの曲、好きになっちゃいます!……何て言ったらいいのかなぁ…… 
すごく、感じるんです……まだ聴いてもいないんですけど、作曲家の先生と、 
プロデューサーさんの気持ちが伝わってくるって言うか……だからきっと、大丈夫ですっ!! 
ゴー・マイ・ウェイで頑張っていきまっしょい!!ですよっ♪」 
「……春香?」 


元気づけたつもりのプロデューサーの顔が、疑問符で一杯になる。 
春香はその顔を見て、慌てて何かに気が付いたらしく、 
「あ……す、すみませんっ……文法、間違っちゃいましたよね…… 
正しくは、ゴーイング・マイ・ウェイでしたよねっ!うぅ……やっぱり英語、苦手……」 
「いや……そうじゃなくって……春香、まだその曲、聴いてないんだよな?」 
「へ!?……え、ええ……全然。そう言えばタイトルも聞いてませんでした」 
「タイトルは……まぁ、まずは聴いてみてくれ。一番最初の歌詞がタイトルだから。 
でも……春香の言うとおり、きっと春香に似合ういい歌だと思うよ。 
何か、俺もさっきの春香を見てそう思った」 

【GOING MY WAY】……日本人にはあまり良い意味に思われないこの言葉。 
しかし、春香なら……わが道を突き進みながらも人を幸せにしてしまいそうな気がする。 
たとえ転んでも、他人を巻き込んでも……もろもろのデメリットを含めても、 
触れる人全てを幸せにしてしまう……そんな気がするし、彼女はその資質が充分にあると思える。 
作曲家の先生が、あえて進行形の【ING】を外した理由も、 
単なるリズムや語呂合わせだけでは無いような気がしてきた。 

(……あの先生は、歌うアイドルのイメージまで的確に汲み取ってくれる人だからな…… 
参ったね、こりゃ……単なるヒットでは済みそうに無いかもな) 

テンションが上がって、疲れている身体が気にならないほどに血が騒ぐ。 
一刻も早くレッスンをして、春香をステージで歌わせたい。 
まだ歌わせてもいないのに、プロデューサー本人の脳内に明確なイメージが組み上がる。 
楽しい時間は早く過ぎてしまうと世間では言われるが、イメージを組む途中で、 
もう仮眠室の扉まで歩いてしまったらしい。 

「はい、到着ー♪今だけはお仕事を忘れて、ちゃんと寝てください、いいですね!」 
「う……わ、分かった」 
「あと、千早ちゃんにヘンな事しちゃダメですよ」 
「するかっ!?」 

「あははっ……冗談ですよもう。じゃ、わたしは歌詞読みしておきますね。 
うーん、すっごい楽しみですっ♪新曲歌えるなんてー」 
「まぁ……まずは聴いてみる事だ。任せてしまってすまんな、本当に」 
「どーんと任せちゃってくださいっ!!サボったりしませんから♪ 
お昼になったら、歌詞を覚えたわたしをカツモクして見てもらいますよっ!!」 

微妙に文法も間違っているような気がする春香に、今度さりげなく英語と国語の授業が 
うまく進んでいるかを聞いておこうと思いながら、プロデューサーは仮眠室の扉を開けた。 
「じゃ、少しだけおやすみ……春香、ありがとうな」 

眠っている千早を気遣ってか、春香は最高の笑顔と共にVサインを見せ、プロデューサーを見送った。 


(300万枚リリース、かぁ……もしできちゃったら凄いよね……今もプロデューサーさん、 
【敏腕】って呼ばれてるほど凄い人なのに……もしそんなに凄いことしたら、売れっ子どころじゃ 
すまないよね……うーん……超々々々売れっ子、とか……) 
そこまで考えて、語彙の少なさにちょっと落ち込んだ。 

(うぅ……それ、かなりかっこ悪い……何か別の呼び方……プロデューサーチャンプ?キング!? 
違うなぁ……ジェネラルプロデューサー?エンペラー……あぁん、全然しっくり来ない) 
別段どうでもいいことなのだが、一度引っ掛かると、何か決着しないと気が済まないのが 
この手の妄想の嫌なところでもある。 
少ない語彙を必死に漁って脳裏に浮かんだその言葉は、 

(マスター……あ!?これ、けっこうカッコいいかもっ♪で、プロデューサーじゃ語呂が悪いから…… 
スター誕生請負人!!通称、【アイドルマスター】うーん、プロデューサーさん、素敵っ! 
【歌姫】と共に歩むは【アイドルマスター】なーんてね……善永さんならそんな記事を……)  

想像しながら身震いがする、その光景。 
300万枚リリースという、夢のような数字……しかし、社長や小鳥をはじめ、 
765プロ全員が一丸となって挑めば、決して不可能ではない数字。 
少し形は変わったが、春香の夢がもう一つ、明確なものとなった瞬間だった。 

「よっし!わたしも頑張ろうっ!!一番大好きなわたしになるために!!」 

未来は誰にも見えないもの。 
だから誰もが夢を見てる。 

一人の少女が、たった二人の夢を765プロ全員の夢に変える第一歩…… 
それが、今日のこの時となる。 




プロデューサーが出て行ったことにより、裏方二人きりとなったオフィス内。 
社長はブラインド越しに外を眺めながら、小鳥に語りかけた。 

「なぁ……小鳥君。間違っていたのはわたしかも知れんな」 
「……どうしました?社長……」 
「うむ……どうやら芸能の神様は、当分の間わたしに楽をさせたくないらしい。 
自分で言っておいて何だが、300万枚ものリリースを達成したら、どうなると思う?」 
「うーん……それは勿論、芸能界もこの会社も忙しくなるでしょうね…… 
事務員もプロデューサーも、絶対に足りなくなります」 
「うむ。そして……そして、彼らを見守りつつ、何かあったときに責任を負う人間が必要だ。 
隠居など、まだ早い……わたしは、その役目を全うするべきだった。 
わが765プロには、如月君をはじめ、天海君や水瀬君……ダイヤの原石はまだまだいるのだからな」 
「あら、社長……今頃分かったんですか?わたしはもう、とっくに気付いてましたよ♪」 

半分はからかうような口調だが、小鳥も嬉しさを隠せないらしく、 
キーボードへのタイプミスが続いていた。 
テンションが上がりすぎて逆に仕事に影響が出ているので、彼女もわざとらしく立ち上がる。 
「さて……じゃ、わが765プロの門出を祝って、音無小鳥スペシャルブレンドの珈琲を淹れましょうー♪」 
「おお、それはいいな!!……昨日は頼んでも淹れてくれなかったのに」 
「当たり前ですっ!!珈琲は、感情をぶつけたり、落ち着かせるために飲むものじゃありませんからね!! 
嬉しい時に淹れた方が、全然美味しいじゃないですか♪」 
「うーむ……その通りだな。いや、すまない……昨日はわたしもどうかしてたようだ。 
彼を見ていると、どうしても若い頃を思い出してしまって、な……」 
「お♪興味深いですねぇ……では、美味しい珈琲と一緒に詳しく聞きましょうか?」 

オフィス内に、手挽きのコーヒーミルが出す独特の音と、やわらかな香りが漂う。 
「我が社に、果てしなく広い天と海が、春の香りを運び、人の心を癒して行った様だな……」 
「うっわぁ……社長、ちょっとキザっぽい……まぁ、今日だけは許しちゃいますけどね」 

伝説は一つでは無く、いつ終わるかも分からない。 
だが、少なくとも今日のこの時、765プロにいる人間全てが一つの夢を見ていた。 


■ 


気合充分な状態でレコード室に入った春香は、プロデューサーから渡された新曲入りのMDを再生する。 
ダンス系の曲っぽい早めのテンポを胸に刻みながら、リードボーカルの歌詞を聴くと…… 

「え?【ごまえー♪】……って、多分お料理の【胡麻和え】じゃないよね。英語……」 

偶然の一言では、とても片付けられない歌詞に春香はひたすら驚き、慌てる。 
続きの歌詞を聴けば聴くほどイメージどおりのその歌に。 

「え……えぇぇっ!?嘘っっ……どうして、こんなにイメージが……えーっ!?」 

躓きながらも挫けずに進む、その心意気。 
怯えながらも夢を見据えて進む、その決意。 
今、新たな目標を掲げて再スタートを切る春香にとって、運命を感じるほどピッタリの曲だった。 

魂を込めてくれた作曲家の先生と、春香のために一番に曲を取りに行ったプロデューサー。 
二人に心から感謝しながら、春香は天を仰ぎ、歌い始めた。 
この曲を聴く人全てに、勇気を、エネルギーを分け与えたくて。 
自分のファンだけでなく、千早も、プロデューサーも、社長達も。 

防音設備のあるのレコード室一杯に、どこまでも純粋で力強く……且つ、 
真っ直ぐでひたむきな、春香の心が溢れていた。 
全ての輝きを、その指に止めてしまうほどに輝かしい姿で…… 



すると、その集中力で曲の持つイメージを最大限にまで高めた春香の脳裏に、 
別のものが映り始めた。 
これから参加するであろう、噂に聞く特別オーディション。 
憧れのTV出演に、様々な仕事。そして……昔は夢でしかなかった、大舞台でのコンサート。 
この曲の持つ感動を伝えることが出来れば、おそらくは辿り着けるであろうその道。 

誰もいないレコード室に、一瞬だがその未来が見えたような気がした。 
心臓の鼓動が何処までも高鳴り、収まろうとしない。 
例え一瞬でも、それほどはっきりとイメージが浮かんだのだ。 
あとは、このイメージに向かって真っ直ぐ進むのみ。後悔も迷いも無い。 
無論、ダンスやポーズなど、曲を身につけるにあたってレッスンすることは山ほどある。 
それでも、今だけはイメージの中にある感動を味わいたかった。 

具体的目標というより、夢でしかなかったそのステージで歌う自分。 
そして、大舞台を前に自分と同じくらい緊張しているプロデューサー。 
……きっと、彼女は自分とプロデューサー両方を落ち着かせ、 
かつテンションを高めるため、こう言うのだろう。 

『プロデューサーさんっ!!……ドームですよ、ドーム♪』 

その日は、きっと遠くない。 




■おしまい。 

















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